風月堂の歴史は、初代大住喜右衛門が江戸に下った1747年
(延享4年)がその始まりとされています。喜右衛門は、
縁続きの呉服商で修行をしながらも「江戸には上方にあるような
美味しいお菓子が少ない。商売をするなら人に喜ばれるものを
作って売ることだ」と決心し、1751年に現在の「風月堂」の祖ともいうべき「大坂屋」を
開業したのです。
「大坂屋」はのちに松平定信公から「風月堂」の名を拝命し、そのときに
喜右衛門自身の名前も、それまでの小倉姓から大住姓へと改名して
います。
順調に菓子商を営んでいた初代喜右衛門ですが、惜しいことに子に恵まれませんでした。
そこで姪にあたる恂(じゅん)を養女に迎えました。恂は、養家の喜右衛門家から、唐津藩主水野家に奉公に上がったのち、当主忠光の側室となり、後の老中、水野忠邦を生みます。その後、忠邦が跡継ぎとなることが決まったために、宿下がりとなり、喜右衛門の家に戻り、婿として二代目喜右衛門を迎えたのです。
幼くして生母と引き離れされた水野忠邦は、生母の新しい夫、二代目喜右衛門を引き立て
お出入りの菓子商人として厚く遇しました。
そこから二代目喜右衛門の菓子は評判を呈するようになり、やがて諸大名家への出入りが許されたのです。そして、ついには松平定信(筆頭老中を辞して楽翁と号す)に気に入られ、松平家の御用菓子商となりました。
二代目喜右衛門の誠実な人となりが松平定信公の知るところとなり、「汝が心事の清白なる
を愛する。これをもって屋号とせよ」と「風月堂清白」の五文字を賜りました。
二代目喜右衛門がこれを水野忠邦に報告すると、喜んだ忠邦は当時の名書家、市川米庵を
招き、巨大な白布に「

」と揮毫させ、これをもって店頭に掲げよと暖簾を賜ったのです。この日から「大坂屋」は「

」となり、この「

」の暖簾の文字は現在も使われています。
幕末の動乱期を無事に乗り越え明治を迎えた風月堂は、四代目喜右衛門の代へと入ります。しかし、四代目は若くして亡くなり子もなかったために廃家となり、風月堂総本店の家督は、四代目の弟の五代目喜右衛門が継いでいました。
五代目喜右衛門は自身の三子を廃家となっていた四代目喜右衛門の養子にいれ、兄の家を復興させます。すなわち五代目喜右衛門の三子であり、四代目喜右衛門の養子である大住省三郎こそが、のちの上野風月堂の創設者となるのです。
省三郎は、総本店を継いだ兄、六代目喜右衛門のもとで、修行を積んだのちに1905年(明治38年)、上野風月堂
を立ち上げました。ときあたかも日露戦争の真っ只中。逆風の中での創業でしたが、総本店から資金面、人材面での強い後押しを受けて、今日の上野風月堂の礎を築いたのです。
省三郎の兄、六代目喜右衛門が継承した総本店は跡継ぎの夭折が続き、残念なことに1956年、昭和31年に休業に至りました。
現在、初代大住喜右衛門からの血を継承するのは「上野風月堂」のみとなってしまいましたが、総本店の人々と上野風月堂の温かな交流は現在も続いています。
現在の上野風月堂の社長、大住省一は、省三郎の孫にあたり、初代喜右衛門の商才の血はここに受けつがれているのです。